photographed at ginza, japan, 2011 © taddy
いろいろと騒ぎを巻き起こしているドキュメンタリー映画、「ザ・コーヴ」。
和歌山県・太地町のイルカ漁の“残酷さ”を訴える映画ですが、最近、太地町の各住民に「ザ・コーヴ」のDVDが送られて来たそう。DVDは映画がコピーされたものだったらしいですね。どういう経緯で送られたのかは知りませんが、DVDのコピーは違法(=犯罪)だと思うのですが・・・。
捕鯨やイルカ漁のことで、日本は批判を受けてますね。それに対する反論も多々あります。でも、そこにたくさんの矛盾を感じるんですよね。
たとえば、ボクがアメリカにいた頃の話。アメリカはハンティングが盛ん。キャンプに行くと、鹿やオオカミなどの仕留めた“獲物”を誇らしげにぶら下げて写真を撮っているハンターたちに出くわします。
鹿は殺してもよくてイルカはなぜダメなのか?鹿は農作物を荒らす害獣だから?イルカは知能が高いけど鹿は知能が低いから?鹿は増えすぎて個体数が多いけど、イルカは貴重だから?
「命」という基準で考えれば、イルカも鹿も同じはず。害獣であろうと、それは人間が決めつけた判断であって、彼らにも生きる権利はあります。ひとつの「命」の重さは個体数の多い少ないに関係ありません。知能の高い動物は殺しちゃダメというのは、人間で言い換えると、頭の良い人たちは大切にしないといけないけど、バカな人たちはぞんざいに扱ってもよいと言っているのと同じこと。これって差別ですよね?
イルカを捕ることが単なるハンティングの楽しみで行われているのであれば、批判されてもおかしくないと思いますが、太地町のイルカ漁は、食文化です。乱獲しているわけでもなく、必要分だけを必要なときに捕っているだけのこと。
そもそも思うんです。環境運動家にしても動物愛護家にしても、人間を大事にできない人が動物や環境をも大事にできるわけがないと。
動物や環境は、ある意味、ボクたちとは「離れた存在」です。人間同士の緊密さとはまた違います。もっと身近な例で言い換えると、同じ人間でも、道端で出会う「他人」に愛想をふりまくことは難しくないけど、一番身近な存在である家族には「ありがとう」のひとことさえちゃんと言えないのと似たようなことです。
直接的に関係のある人たちを大事にできないのに、周囲を大事にしようとすることは、表面的な行為に過ぎません。傷つくことなく「良い人」である自分に酔いしれる自己満足だと思います。
ですから、人間同士の関わりありを大切にできない人が、環境や動物を本当の意味で大切にできるとは、ボクにはとても思えません。